アルケンはなぜ反応しやすいのか
アルケンは求電子剤と反応しやすい性質があります。ここで、求電子試薬とは、電子を求める物質のことです。
アルケンはC=C二重結合を持ちます。二重結合はσ結合とπ結合からなりますが、このうちπ結合の電子は空間的に広がっており、外部から接近しやすい位置にあります。
π結合では、2つの炭素原子のp軌道が横向きに重なり、電子密度がC–C結合軸の上下に広がっています。そのため、求電子剤がこの電子密度に近づきやすくなっています。
そのため、電子対を受け取る性質を持つ求電子剤がπ電子に引き寄せられやすく、アルケンは求電子剤と反応しやすい性質を持ちます。

求電子付加反応の機構:ハロゲン化水素との反応
アルケンはハロゲン化水素と反応することが知られています。
ここではその反応について詳しく紹介します。
ここでは、臭化水素(HBr)と2-methyl-2-buteneの反応を例に説明します。
HBrはHとBrの電気陰性度の差により、Hδ+とBrδ-に分極しています。求電子剤として働くHδ+がアルケンのπ電子に引き寄せられ、まずカルボカチオン中間体が生成します。その後、求核剤であるBr-がカルボカチオンに付加して最終生成物が得られます。

水素と臭素はどっちに付く? ~Markovnikov則~
図1に書いた反応は本当に正しいのでしょうか?
先ほどは疑うことなくメチル基の多い炭素に臭素が、水素の多い炭素に水素が付加したときの生成物を描きました。
しかし、メチル基の多いほ炭素に水素、水素の多い炭素に臭素が付加するという経路も考えられるはずです。

非対称アルケンにHBrが付加するとき、どちらの炭素にHが付加するかで生成物が変わります。
結論から言うと、主に生成するのは上に書いた化合物(2-bromo-2-methylbutane)です。
さて、なぜなのでしょう?
この位置選択性を経験的に説明したのが、ロシア人のMarkovnikov(マルコフニコフ)という人でした。
Markovnikov則:Hは水素をより多く持つ炭素に付加する。
先ほどの例を見返してください。主生成物ができるまでの経路をたどると、確かに水素の多いほうにHが付加した経路をたどることが分かります。
しかし、別の反応条件でハロゲン化水素を付加させると、Markovnikov則で予測される主生成物とは真逆のものができます。
これは反Markovnikov則や逆Markovnikov則と呼ばれています。
このように、Markovnikov則には例外もあるのです。それもいくつもあります。
そして、なぜMarkovnikov則や反Markovnikov則が成り立つかは現代の化学では容易に説明することができます。
ということで、Markovnikov則は、今となっては過去の遺産となったと考えていいと思います。
Markovnikov則は基礎的な有機化学の教科書でよく見かけますが、これを暗記して短絡的に適用してはいけないのです。
なぜMarkovnikov則などの位置選択性が生まれるのか、その原理を理解する必要があります。
なぜ位置選択性が成り立つのか
Markovnikov則は経験則なので、なぜそうなるのかまでは主張されていません。
では、なぜMarkovnikov則が成り立つのでしょうか。
カルボカチオンの安定性
Markovnikov則を理解するには、カルボカチオンの安定性を知る必要があります。
カルボカチオンとは、正に帯電した炭素のことです。先ほどの図2や3の反応機構で中央に描かれたもののことです。
カルボカチオンは、正電荷を持つ炭素に結合しているアルキル基が多いほど安定です。これには2つの理由があります。
誘起効果:アルキル基は電子供与性を持ち、正電荷を分散させる。
超共役:隣接するC–H結合のσ電子がカルボカチオンの空のp軌道と相互作用し、電子密度を補う。アルキル基が多いほどこの効果が大きく働く。
誘起効果については、CとHの電気陰性度の差から、アルキル基の炭素が負に偏り、隣のカルボカチオンの正電荷を和らげることで安定化します。
超共役は、物理化学をしっかり学んで理解する概念なので、この記事のレベルを超えてしまいます。簡単に説明すると、カルボカチオンの隣に位置するC-H結合の電子がカルボカチオンの空のp軌道に流れ込んで安定化します。
したがって、一般に級数の大きな(つまりアルキル基を多く有する)カルボカチオンが安定であると言えます。
級数とは
注目している部分に対してアルキル基がいくつ付いているかを表す指標を級数と言います。アルキル基の数を算用数字で書き、その右上に丸を書きます。例えば、エタノールは1級のアルコールなので、1°と書きます。
ただし、共役を形成することができるなどの、別の安定化の寄与がある場合、必ずしも級数の大きいカルボカチオンが一番安定というわけではありません。
無責任な言い方をすれば、臨機応変にカルボカチオンの安定性を見極めてください、ということになります。
熱力学だけでは説明できない:ハモンドの仮説
ここで注意が必要です。カルボカチオンが安定であることは、反応の自由エネルギー変化(熱力学)の議論です。しかし、どちらの生成物が主に得られるかは反応速度論、つまり活性化エネルギーの問題です。
注
物理化学を学んでいない人にとっては、これも難しい話かもしれません。
例えば、ダイヤモンドよりも黒鉛のほうが安定なので、ダイヤモンドは放っておくと実はいつか黒鉛になってしまいます。でも、結婚指輪が黒鉛になって真っ黒になる、という状況を見たことがある人はいないと思います。これは、ダイヤモンドから黒鉛になる速度が遅いからです。ダイヤモンドが黒鉛に勝手に変化するというのは事実ですが、それを私たちの寿命の中で観測できるほどの速さではないのです。同じように、カルボカチオンは級数が大きいほど安定であったとしても、実際は低級のカルボカチオンができる速度のほうが速いということもあっても不思議ではないのです。
個人的に、「安定」という言葉が何を指しているのかが分かりにくいというところに問題があるのではないかと思っています。化学の世界では、普通は平衡で行き着く先が安定と言うことが多いように感じます。
さて、「安定なカルボカチオンを経由するから主生成物になる」と言うためには、安定なカルボカチオンを経由する経路の活性化エネルギーが低いことを示す必要があります。
この問題に対して一つの答えをを与えるのがHammondの仮説です。
遷移状態の構造は、それに最も近いエネルギーを持つ化学種の構造に似ている。
この仮説を聞いて、どう思いましたか?私は妥当だと感じました。構造が似ていれば、エネルギーも似ているというのは私の直観では受け入れやすいと感じました。
図にするとこのような形になります。

つまり、安定なカルボカチオンほど、それを生成する遷移状態のエネルギーも低い。これによって、より安定なカルボカチオンを経由する経路の反応速度が速くなることが説明できます。

図5の左の図では、3級カルボカチオンを生成するときの遷移状態が、2級カルボカチオンとエネルギー的に近い位置にあります。これはHammondの仮説に反します。3級カルボカチオンを生成するまでの遷移状態は、2級カルボカチオンと似ているということになってしまいます。しかし、実際は3級カルボカチオンのほうに似ていると思われます。そのため、Hammondの仮説に反することになります。
カルボカチオン中間体の証拠:転位反応
本当にカルボカチオンが中間体として生成しているのでしょうか。これを強力に支持する証拠がカルボカチオンの転位反応です。
カルボカチオンは、隣接する基が移動することでより安定なカルボカチオンに変化することがあります。これを1,2-シフトと呼びます。
ヒドリドシフトの例
3-methylbut-1-eneにHBrとエーテルを加えると、2-chloro-3-methylbutaneだけでなく、2-chloro-2-methylbutaneも生成します。
まず第二級カルボカチオンが生成した後、隣接する水素原子(ヒドリド、H–)が移動して、より安定な第三級カルボカチオンに転位するためです。

メチル基シフトの例
3,3-dimethy-1-lbuteneにHBrとエーテルを加えると、メチル基が移動した生成物が得られます。
同様に第二級カルボカチオンが生成した後、隣接するメチル基が移動して第三級カルボカチオンに転位します。
このような転位反応は、カルボカチオンが実際に中間体として存在していなければ起こりえません。

補足:ラジカル付加と反Markovnikov則
HBrのアルケンへの付加は、反応条件によって異なる機構で進みます。
通常条件ではイオン機構で進み、Markovnikov則に従った生成物が得られます。一方、過酸化物存在下ではラジカル機構で反応が進み、反Markovnikov則に従う主生成物が得られます。これをKharasch効果といいます。
イオン機構との最大の違いは、HではなくBrが先にアルケンに付加する点です。Brラジカルはより安定なラジカル中間体を与える炭素に付加します。結果としてHは末端炭素に付加することになり、イオン機構とは逆の生成物が得られます。
なお、HCl・HBr・HIの中でラジカル付加が効率よく進むのはHBrだけです。これは結合解離エネルギーのバランスによるもので、HBrだけがラジカル連鎖の各ステップを発熱的に進められる絶妙なエネルギーバランスを持っています。
まとめ
- アルケンはπ結合の電子が外部から接近しやすく、求電子剤と反応しやすい
- HBrの付加はカルボカチオン中間体を経由するイオン機構で進む
- Markovnikov則は、安定なカルボカチオンを経由することとHammondの仮説で説明できる
- 転位反応の存在がカルボカチオン中間体の強力な証拠になっている
- 過酸化物存在下ではラジカル機構となり反Markovnikov生成物が得られる